この世の果てで酒を呑む中年 MI-DO

若い女性に人気」はまったく信用ならない。そのほとんどが広告で、下らないイメージ先行のポップカルチャーであるからだ。僕が信用するのは社会の隅っこに追いやられた哀愁ただよう中年のおじさんだ。彼らが好むものは本物が多いと勝手に思っている。

 

 

彼らの生息域はこの世の隅っこで、それは場末のサウナだったり、くたびれた喫茶店や人けのない公園だったりする。流れ着いた先が隅っこだったのか、好んでそこにいるのかはわからないが、つまはじきにされた者たちが集う場所には独特の優しさがこもる。

 

 

そんな彼らはあらゆる酒の呑み方を熟知していて、若輩者の我々は習うことが多い。特に若者がなかなか手に取らないカップ酒に彼らの美学がたっぷりと詰まっている。

 

カップ酒。飲めば飲むほどその完成度に驚かされる。コップ型の瓶に詰められたカップ酒は蓋をあければそのままお猪口となり、ガラスが持つしっかりとした飲み口を保証してくれる。紙パックの酒では到底表現しえない口当たりだ。ガラスのカップにはまだまだ利点がある。冷やしておけばガラスに冷気が宿り冷やしたコップにそのまま変わり、熱燗にしたいときはそのまま鍋に放りこんでもいいし、電子レンジにぶち込んでもいい。

 

カップ酒の肴は悲劇、哀愁、敗北感……と負の感情と相性がいい。公園のブランコで悲劇のカタルシスを感じながら飲むのが最高に通だと思う。やはり彼らは本物を知っている。

 

「誰も隅っこで泣かないようにと 君は地球を丸くしたんだね」

 

野田洋次郎はのたまっているが、地球が球形になり隅っこが消失したということはこの世の果ても同時に消失することで、それは自分が世界の中心でありながらどこからも疎外されているとも言える状態に置かれていることを指す。目指す場所も消失し、同じところをうろうろするだけの現代で、僕たちはいったいどこに向かえばいいのだろう。

公園のおじさんは未来の私。そのとき僕は悲劇のカタルシスで酒を呑めるくらい老成しているのだろうか。