二人の王国

2004年、夏。小学生だった彼は背伸びをしたかった。恋というものがどういうものかを知りたかったのだ。少年はなけなしの小遣いをはたいて、当時ベストセラーになっていた「世界の中心で愛をさけぶ」を手にとってみた。

結果として、本の帯に書いてあるような感動の渦に巻き込まれるなんてことはなく、恋の正体は掴めずじまいだった。ただ、昔の恋人の墓を掘り起こして骨を盗む描写はなんだか気に入っていた記憶がある。

 

彼はこの「世界の中心で愛をさけぶ」で読書感想文を書いた。

彼の読書感想文はなにかの代表に選ばれて、どこかのコンクールに送られることになった。

どうして選ばれたのかはわからないが上述の背伸びをしたいという少年心と、本来の自意識過剰な文体が受けたのかもしれない。ただ、あの文はいい子ちゃんぶって書いたものだから結局大人は子どもが子どもであることを好むのだろうと、なんとなく少年は感じていた。少しだけ注目を浴びた彼はそのあと机の中に隠していた感想文を悪ガキによってクラスの皆にさらされ嘲笑された。怒った彼はその悪ガキに掴みかかっていった。

 

 

中学にはいると、恋仲の間には必ず粘膜の接触があるらしいと男子中学生達の間ではもっぱらの噂だった。誰もが彼女を作るのにやっきになり、その中には女の柔肌に至ったものもいた。

この頃から彼のなかで恋=粘膜という観念ができあがり、まずはこれに触れてみなくては恋の正体なぞわからない、そんなふうに考えるようになっていた。しかし彼が女のデルタに出会うのは高校を卒業したあとになるのだが。

 

 

ひとかどの恋愛関係を体験し、恋愛から生ずる懊悩も味わった彼だが、どうやら、未だに恋というものが捉えられてないらしい。というのも一般的な恋のイメージと彼が体験してきたもののズレがあった。

彼には恋愛感情と性欲とが区別できない。さらには、相手を支配、独占したいという感情が圧倒的に優位だ。隣にいる女は嘘をついていないかと疑心暗鬼になる。もしかしたら俺の知らない間に貞淑を侵しているかもしれない。この恍惚に浸った顔をオレ以外のダレカにむけているかもしれなイ………。

 

 

これが恋というならば、「恋がしたい」とセミのように鳴いている連中はあまりに野蛮であって、街を歩くカップルやはたまた親達をみて、どうしてあそこまで清廉潔白に振る舞えるのかずっと疑問であった。

 

そんな折、「嵐が丘」を読んだ。

作者はエミリ・ブロンテ。牧師の娘として生まれ、29のときに「嵐が丘」を発表し、その翌年に亡くなっている。そしてこれは語られていることだが、彼女は生娘であった。

 

キャサリンヒースクリフは深く結びついている。これは粘膜によってではなく、少年時代の王国によって。ヒースクリフは孤児で、そして悪鬼のような振る舞いをする。彼にはキャサリンしかなかった。しかし、キャサリンは紳士で裕福な家柄をもつエドガーに求婚され、それに応じる。裏切られたヒースクリフは彼女らに見合うような大人となって、ふたたび彼女らの前に姿を現すが……。

 

キャサリンは板挟みであった。片や裕福で物腰の柔らかく、絵に書いたような幸福な結婚生活を送れるエドガーか、乞食のような生活を送るはめになるが自分と究極に繋がっているヒースクリフなのか。

片方は一般的で型にはまった幸福を、一方は身を滅ぼす至高が待っている。

 

ジュルジュ・バタイユは田舎の生娘がこの悪にまみれた物語を紡いだことを「想像が現実に勝利をした」例だといった。悪の至高性の前に粘膜の触れ合いなど戯言にすぎないのだ。

 

 

どうやら我々は恋が毒にも薬にもならないくらい薄められた世の中に生きていたようだ。二人の王国は消費にさらされ、この世を破壊する力をもったはずの雄雌はいまや人畜無害な関係と化している。

エミリ・ブロンテにとって恋とは二人の王国であり至高への意志だ。これは理性にでっち上げられた掟に対抗しうるものである。

 

 

 

 

もちろん、彼に王国を築き上げる力を持っているかどうかは、また別のはなし。