負の技術

先日職場で労災が起こり、部内の上の連中は大騒ぎをしている。
やれ、保護具をちゃんと着用しろだの、ルールの徹底しろなど口うるさく指摘をしてくる。
あげくには、安全確認を怠ったなど、ルールを破ったなどと実際に労災に遭った人を責めるような言い草も見受けられた。

自分たちは現場に出ず、労災の危険もなく、エアコンの効いた部屋でくそどうでもいい仕事をしている連中が、
実務を担っている労働者に対して、しかも実際に被害にあった人に対して、なぜ上から物を申せるのか甚だ疑問である。


この傲慢な態度をとれるのは、監督不届きのため自分が罰せられるからだろうか。
それとも自分が会社のルールを守らせる管理側だと思いあがっているのだろうか。


例えば、受けた痛みをそのまま人に移す機器があったのなら、それを会社の上司に付けるのはどうだろう。
エヴァンゲリオンのシンクロ装置をそのままミサトやゲンドウにつなげてしまえばいい。

立場の弱い子どもである自分を危険な前線に立たせ続けているのだから、お前も相応の痛みを受けろ、と例えばシンジがこのような主張をしだしたとき、視聴者はどう思うだろう。

「オペレーションに支障をきたす」、「非生産的で感情的」など、否定的な文言が言われるかもしれない。

しかしそこにはだれもシンジの溜飲を下げることは考えていない。

今回の労災もそうだ。
溜飲を下げるのは本人の役割で誰も気に留めることはしない。

痛みを共有することで本人の溜飲が下がるなら、俺は痛みのシンクロ装置はあったほうがいいと思う。しかし、それを公言するのはなぜだかはばかられるような気もする。
結局自分もこころのどこかで痛みの共有は「非生産的」と考えているのだ。

杉田水脈が「同性カップルは子どもを産まないため非生産的だ」と述べた。
この発言で注目すべきは「非生産的なこと」に対する過剰な忌避だ。

利益を生み出さなければだめなのか。前向きでなければならないのか。

生産性、コスパ、タイパ…
いつからかこいつらが神となり、心の中に巣食うようになった。

 

…いったい俺は何を語ろうとしている。

色々と腹が立つことが多いが、自分にはその怒りを表現できる能がなく、こんなとりとめのない文になってしまった。

やはり一番言いたかったことを言おう。
労災はてめーらが遭えばよかったんだ。