愛の捌け口

中学生の頃、部活の顧問がこんなことを言っていた。

「男子は見て覚える。女子は一から十まで教えてやらんといかん」

これは一部抜粋だ。本当はこの後に「お前らは弱すぎて一から十まで教えんといかん」と言われている。

今さら十何年もの前の発言を蒸し返して、その顧問がいかに時代錯誤的だったかを告発したいわけではない。
むしろ、この顧問の言ってることはわりと最近までバレー指導者の中で広く共有されていたことらしい。

女バレの厳しさは傍から見ていても異常だった。

決まった動き、決まった掛け声、決まった応援
髪は短く揃えられ、顧問によってはスポーツ刈りまでさせていた。

中高女子バレーの試合を見るのは苦痛だった。
ルールにがんじがらめにされ、硬直した選手の動きに精彩はなく、ミスは少ないがリスクを取ったプレーもなく、だらだらと引き延ばされる試合。
怒られないようにするためだけの試合はもはや勝負と言えず、顧問の機嫌を損ねないようにするだけの時間に見えた。


すべては偏見に基づいた指導に拠るものだったと思う。
それに加えてバレーボールというスポーツがミスによって失点するスポーツというのも相まって、指導者が軍曹化する。
しかも教師はそれをほとんど無償でやっている。自らの意志によるものなのか無意識なのかはわからない。


高尚な目標を掲げ、謎の責任感によって生徒を絞り上げ、挙句の果てに暴力にいたる。
それもボランティアで。
こんな不可解なことがあるだろうか。


この不可解さには見覚えがある。
それは虐待が起こるメカニズムとよく似ている。

愛情の鬱血、そして破裂。

子どもや生徒というのは恰好の愛の捌け口だ。
親や教師など愛情を注がせてもらっている点で子どもや生徒から返礼を受け取っているのに、一方的に渡していると勘違いをしている。
「無償の愛」だから尊く、また人格として優れているとうぬぼれている。


俺はこの手の自惚れが大嫌いだ。
教育や指導と称して愛欲の発散をする。
それを本人は聖なる行いだと思い込んでいるから邪悪さが増す。

正直、部活動に指導者というのが必要なのかも自明ではない。
偏見に基づいた異様な指導がまかり通っているならなおさらだ。


愛を吐き出したいのなら、子どもや生徒のような立場の弱い愛玩物ではなく創作物か伴侶にしておけ。