この世を破壊するにあたう人とはいったいどんな人物であろうか。
この世を破壊するものというラスボスじみた人を想像するのは難しいが、村上龍はたやすくこの問いかけに答えて見せる。
それは誕生を祝福されなかった者だ。
村上龍の「コインロッカー・ベイビーズ」は孤立した母親が追い詰められていく、女性が抱える困難とそれを見て見ぬふりをする社会の無責任さに鋭いメスを入れる気鋭作…、などではまったくない。
コインロッカーに押し込められ、暑さと息苦しさで不愉快極まりないスチールの箱から自力で這い出した子どもの話である。
つまりこいつは生誕を祝福されなかった。厄介なゴミとして扱われたのである。
こいつは生きるうちにこの世がコインロッカーの中であるような気がしてきた。
そこで神経毒兵器ダチュラの存在を知ることとなる。
龍は破壊によって、春樹は回想によってしか青春を表現できないといった文をどこかで見た。
確かに村上龍の文章は暴力で満ちていて、傲慢で全能感にあふれているが、読後はどこか清々しい。
少年の内奥で暴れまわる牙がゲロを盛大に吐き出したような爽快感と重なる。
「コインロッカー・ベイビーズ」は青春小説だ。
有刺鉄線で囲まれた鉄条網を棒高跳びで飛び越えるとき、抑圧からの解放という青春の粋を集めたカタルシスが待っている。
あとは破壊だ。
スチールの箱をぶち壊さなければならない。
例えばいま、暑苦しさと息苦しさで満ちたスチールの箱の中にいるような奴はどうしたらいいのだろうか。
酒で目の元をくぼませながら、醜い脂肪を体にまとわせながら、睡眠薬で舌を真っ青にさせながら、布団の中でぼんやりとYoutubeを眺めている奴はいったいどうしたらいいのだろう。
コインロッカーベイビーズであるキクはこう言い放つ。
「何が好きかわからない奴は死ねばいい」
思うに、その正体不明のしんどさは、自分がどうしたら充足するのかを知らないことに端を発するのではないか。
なぜ、充足の方法を知らないのか。
それは満たされたことがないからである。
ならば、満たされるまで蕩尽しつくすほかない。
金がなければ時間を。時間がなければ命を。
そうして赤子は疲れて泣き叫ぶのをやめる。彼は満たされたのだ。