ヰタ・セクスアリス

 

12月、ソープランドの予約をした。期待で胸を躍らせていた反面、44000円という高額さに後悔もしはじめていたところ、予約日前日にボイラーの故障で休業するので予約をキャンセルさせてほしいと連絡がきた。
小心者の私は、この一報に胸をなでおろすこととなった。


ひるがえって、年始。
酒が入り、上機嫌となった私たちは、道端のおじさんの言われるままにフィリピンパブに入った。
80分4000円で飲み放題と言われ、その圧倒的安さに押され着席をすると、あれよあれよと6人ほどの女性に囲まれ、気づいたときには一人2万3000円にまで遊戯代が膨れ上がっていた。
片言の日本語の彼女たちと込み入った話ができるわけでもなく、彼女のひざ掛けにされていた我が外套には異国の女の特有の匂いが染みついていた。
しばらくはその外套を羽織るたび、げんなりとさせられた。

 

森鴎外の『ヰタ・セクスアリス』では鴎外の写し身である金井湛 (しずか)の性体験を語ったものだ。
子どものころ、女性の身体について知らないことをからかわれたこと、侍女とのまったく交差しないやり取り、悪友に連れられ遊郭へ行ったことなど金井湛(鴎外)の女性についてまつわることが淡々と書かれている。

 

おれは何か書いて見ようと思っているのだが、前人の足跡を踏むような事はしたくない。丁度好いから、一つおれの性欲の歴史を書いて見ようかしらん。実はおれもまだ自分の性欲が、どう萌芽ほうがしてどう発展したか、つくづく考えて見たことがない。一つ考えて書いて見ようかしらん。白い上に黒く、はっきり書いて見たら、自分が自分でわかるだろう。そうしたら或は自分の性欲的生活が normal だか anomalous だか分かるかも知れない。

 

己の性欲の歴史について語ること自体に関心があり、正常なのか逸脱したものなのか確認をしてみたかったというらしい。また長男が高等学校を卒業するタイミングということで、性というものを教えるということも念頭にあったようだ。
そして、このヰタ・セクスアリスは鴎外の自伝であるため実質『舞姫』の前日譚でもある。


それで確信をした。
俺はあまりにも鴎外に共感を覚えていたのだ。

 

高校生の頃、『舞姫』ではクラスの女生徒が豊太郎に憤慨している中、俺はエリスに苛立ちを覚えていた。
エリスが豊太郎の出世を邪魔する鬱陶しい存在にしか思えなかったのだ。

どうして当時、そこまで偏った感情しか抱けなかったのか、それはもともと鴎外びいきすぎて豊太郎に肩入れしすぎていたのだった。

さて、鴎外にそこまで共感したのなら、異性に対しての態度も似ていることだろう。

基本的に奥手なのだ。
だからこそ、己を欲情に導く積極的な存在に心惹かれるものがある。それは例えば踊り子のような。

 

そしてどうしてソープランドに行ってみたかったというと
泡姫のプロの房中術を味わってみたかったんだ。

ダチュラ

この世を破壊するにあたう人とはいったいどんな人物であろうか。

この世を破壊するものというラスボスじみた人を想像するのは難しいが、村上龍はたやすくこの問いかけに答えて見せる。

それは誕生を祝福されなかった者だ。


村上龍の「コインロッカー・ベイビーズ」は孤立した母親が追い詰められていく、女性が抱える困難とそれを見て見ぬふりをする社会の無責任さに鋭いメスを入れる気鋭作…、などではまったくない。

コインロッカーに押し込められ、暑さと息苦しさで不愉快極まりないスチールの箱から自力で這い出した子どもの話である。

つまりこいつは生誕を祝福されなかった。厄介なゴミとして扱われたのである。
こいつは生きるうちにこの世がコインロッカーの中であるような気がしてきた。

そこで神経毒兵器ダチュラの存在を知ることとなる。


龍は破壊によって、春樹は回想によってしか青春を表現できないといった文をどこかで見た。
確かに村上龍の文章は暴力で満ちていて、傲慢で全能感にあふれているが、読後はどこか清々しい。
少年の内奥で暴れまわる牙がゲロを盛大に吐き出したような爽快感と重なる。


コインロッカー・ベイビーズ」は青春小説だ。

有刺鉄線で囲まれた鉄条網を棒高跳びで飛び越えるとき、抑圧からの解放という青春の粋を集めたカタルシスが待っている。

あとは破壊だ。
スチールの箱をぶち壊さなければならない。


例えばいま、暑苦しさと息苦しさで満ちたスチールの箱の中にいるような奴はどうしたらいいのだろうか。

酒で目の元をくぼませながら、醜い脂肪を体にまとわせながら、睡眠薬で舌を真っ青にさせながら、布団の中でぼんやりとYoutubeを眺めている奴はいったいどうしたらいいのだろう。

コインロッカーベイビーズであるキクはこう言い放つ。

「何が好きかわからない奴は死ねばいい」

思うに、その正体不明のしんどさは、自分がどうしたら充足するのかを知らないことに端を発するのではないか。

なぜ、充足の方法を知らないのか。
それは満たされたことがないからである。

ならば、満たされるまで蕩尽しつくすほかない。
金がなければ時間を。時間がなければ命を。

そうして赤子は疲れて泣き叫ぶのをやめる。彼は満たされたのだ。

愛の捌け口

中学生の頃、部活の顧問がこんなことを言っていた。

「男子は見て覚える。女子は一から十まで教えてやらんといかん」

これは一部抜粋だ。本当はこの後に「お前らは弱すぎて一から十まで教えんといかん」と言われている。

今さら十何年もの前の発言を蒸し返して、その顧問がいかに時代錯誤的だったかを告発したいわけではない。
むしろ、この顧問の言ってることはわりと最近までバレー指導者の中で広く共有されていたことらしい。

女バレの厳しさは傍から見ていても異常だった。

決まった動き、決まった掛け声、決まった応援
髪は短く揃えられ、顧問によってはスポーツ刈りまでさせていた。

中高女子バレーの試合を見るのは苦痛だった。
ルールにがんじがらめにされ、硬直した選手の動きに精彩はなく、ミスは少ないがリスクを取ったプレーもなく、だらだらと引き延ばされる試合。
怒られないようにするためだけの試合はもはや勝負と言えず、顧問の機嫌を損ねないようにするだけの時間に見えた。


すべては偏見に基づいた指導に拠るものだったと思う。
それに加えてバレーボールというスポーツがミスによって失点するスポーツというのも相まって、指導者が軍曹化する。
しかも教師はそれをほとんど無償でやっている。自らの意志によるものなのか無意識なのかはわからない。


高尚な目標を掲げ、謎の責任感によって生徒を絞り上げ、挙句の果てに暴力にいたる。
それもボランティアで。
こんな不可解なことがあるだろうか。


この不可解さには見覚えがある。
それは虐待が起こるメカニズムとよく似ている。

愛情の鬱血、そして破裂。

子どもや生徒というのは恰好の愛の捌け口だ。
親や教師など愛情を注がせてもらっている点で子どもや生徒から返礼を受け取っているのに、一方的に渡していると勘違いをしている。
「無償の愛」だから尊く、また人格として優れているとうぬぼれている。


俺はこの手の自惚れが大嫌いだ。
教育や指導と称して愛欲の発散をする。
それを本人は聖なる行いだと思い込んでいるから邪悪さが増す。

正直、部活動に指導者というのが必要なのかも自明ではない。
偏見に基づいた異様な指導がまかり通っているならなおさらだ。


愛を吐き出したいのなら、子どもや生徒のような立場の弱い愛玩物ではなく創作物か伴侶にしておけ。

負の技術

先日職場で労災が起こり、部内の上の連中は大騒ぎをしている。
やれ、保護具をちゃんと着用しろだの、ルールの徹底しろなど口うるさく指摘をしてくる。
あげくには、安全確認を怠ったなど、ルールを破ったなどと実際に労災に遭った人を責めるような言い草も見受けられた。

自分たちは現場に出ず、労災の危険もなく、エアコンの効いた部屋でくそどうでもいい仕事をしている連中が、
実務を担っている労働者に対して、しかも実際に被害にあった人に対して、なぜ上から物を申せるのか甚だ疑問である。


この傲慢な態度をとれるのは、監督不届きのため自分が罰せられるからだろうか。
それとも自分が会社のルールを守らせる管理側だと思いあがっているのだろうか。


例えば、受けた痛みをそのまま人に移す機器があったのなら、それを会社の上司に付けるのはどうだろう。
エヴァンゲリオンのシンクロ装置をそのままミサトやゲンドウにつなげてしまえばいい。

立場の弱い子どもである自分を危険な前線に立たせ続けているのだから、お前も相応の痛みを受けろ、と例えばシンジがこのような主張をしだしたとき、視聴者はどう思うだろう。

「オペレーションに支障をきたす」、「非生産的で感情的」など、否定的な文言が言われるかもしれない。

しかしそこにはだれもシンジの溜飲を下げることは考えていない。

今回の労災もそうだ。
溜飲を下げるのは本人の役割で誰も気に留めることはしない。

痛みを共有することで本人の溜飲が下がるなら、俺は痛みのシンクロ装置はあったほうがいいと思う。しかし、それを公言するのはなぜだかはばかられるような気もする。
結局自分もこころのどこかで痛みの共有は「非生産的」と考えているのだ。

杉田水脈が「同性カップルは子どもを産まないため非生産的だ」と述べた。
この発言で注目すべきは「非生産的なこと」に対する過剰な忌避だ。

利益を生み出さなければだめなのか。前向きでなければならないのか。

生産性、コスパ、タイパ…
いつからかこいつらが神となり、心の中に巣食うようになった。

 

…いったい俺は何を語ろうとしている。

色々と腹が立つことが多いが、自分にはその怒りを表現できる能がなく、こんなとりとめのない文になってしまった。

やはり一番言いたかったことを言おう。
労災はてめーらが遭えばよかったんだ。

快楽は飽きる。でも、苦痛の緩和は、苦痛が強ければ強いほど飽きることがない

5月の健康診断の結果が出た。
血液中の中性脂肪の値が1808mg/dlだった。
基準値が30-149mg/dlというのを鑑みるまでもなく、俺の身体は異常事態にある。

原因は分かりきっている。
アルコールだ。

俺は地下室の手記に憧れ、苦痛の中にひりつくような快楽を得るよう苛烈に生きたいと願っていた。
いや、願っていると思い込んでいただけだ。
本当は何もしないことで舞い込んでくる焦燥を正当化させる理由がほしかった。
そしてその苦痛を和らげるためにアルコールに頼っていた。


この浅はかな考えが診断結果に表れている。

快楽を求めるためにアルコールを摂っているならまだしも、苦痛の緩和のために飲んでいたのなら、それは快楽主義に反する行いだ。

苦悩を極めることで得られる快楽など、ただの錯誤である。
現実逃避のためにあおる酒など……


しかし、アルコール依存症はれっきとした病気だ。個人の意志の弱さや歪んだ性格によるものではない。
依存症は「快楽におぼれている」と勘違いされているが、そのまえに「苦痛におぼれている」。

タイトルはある医師の言葉だ。
苦痛の緩和には飽きがこないという言葉、そこから依存へと繋がっていく。
もっとも、快楽が飽きやすいというのは納得はできないが。


酒が飲めない体になる前に、対策をしていこうと思う。

交差する俺たち

個人的にいらついて仕方のない人物がいる。
岸田首相の息子、岸田翔太朗だ。

海外出張中に公用車で観光していたことや、首相官邸で忘年会を開く己の立場をわきまえない公私混同さがいらつく原因ではない。


それは親父と仲睦まじく、その親父に自分の人生を預けてしまっているところにある。

子供の自立には親の相克に悩むプロセスが必要であると思うが、こいつにはそれが見当たらない。
恵まれた自分の立場をよく考えずに自明のものとし、親と対峙せずのうのうと生きているこいつの破廉恥さが俺の神経を逆なでしてまわるのだ。

 

もう一人気になる人物がいる。
長野の立てこもり犯、青木政憲だ。

正直俺はこいつに感情移入してしまっている。
裕福な家庭に育ち、親の期待を一身にうけながら進学をするが、挫折し、長野の片田舎に幽閉されることになる。
息子の将来を悲観し空回りをする親は、どうにか働いてもらおうとジェラート店などを開店させる。
わざわざ店名に自分の息子の名前をつけて。

この親も息子の自立を望んでいる風であるが、大学を中退させ、稼ぐ能力が皆無の状態で実家に引き寄せてしまったのがまず失敗である。
はなから息子には実家の跡取りとして親元で農園を運営させたいという欲がみえみえであり、独立した個人としての政憲というものを果たして本当に望んでいたのだろうか。
自立を促している風なだけで、実家にへばりつけておいたのはどこの誰だろうか。


青木政憲は親の超克に悩んでいたのではないだろうか。
自立した個人として自分の人生を歩んでいきたいが、親の手ほどきによって生かされている現実に常に傷つけられていたのではないだろうか。

だからジェラート店など手伝わず、しかし収入元のない長野の片田舎という牢獄に幽閉されつつ、そこから抜け出す力も無かったのではないか。

そこで膿のように溜まっていく鬱屈に、俺は見覚えがある。


どうして岸田翔太朗はのうのうと生き、青木政憲は狂ったのであろうか。
同じ年代である俺はこいつらの顛末にやるせなさを感じてしまう。


俺には青木のほうが岸田のバカ息子より誠実に生きているふうに見える。
これは、感情移入のしすぎであるが。

30+1歳の原点

 

5月15日を迎え、31となった。


25からブログを書き始め、途中止まっていた期間もあったが、頭の片隅にはつねに文章を綴ることを意識していた。これからもこの営みは続けたいと思う。


誕生日、ということで自分の生まれた意味をこいつは考察しだすのだろうか。
そうしたいのは山々だが、今まで「自分の生まれた意味」など考えたことはなかった。
それどころか漠然と「俺がこの世に生まれたことは世界にとってプラスだろう」といった傍から見れば傲慢な自己を持ち合わせている。
いやいや、こいつは何かにつけて己の空虚さを嘆いているではないか、そんなやつが自己肯定モリモリなのはおかしい、という指摘はごもっともだ。

 

俺の内部に発生している苦しみは空虚さなのであるが、それは世界にとってプラスであるといった傲慢な自意識を支えるだけの内面がないところに端を発している。
よって尊大な自意識を存立させるだけの自己がない、そこから生じている痛み。
これは贅沢な悩みなのだ。


どうしてこんな肥大化した自意識を後生大事にとっているのか。
それは贅沢だからである。

 

贅沢とは無駄を尽くすこと。つまりは浪費だ。
俺は20代のほとんどを足踏みに費やしたが、見方によっては贅沢に過ごしたのである。
今までの人生を無駄に過ごしてしまったと嘆く人に
「君の人生に一秒たりとも無駄な時間なんてない。だって君はかけがえのない人なのだから」
と、前後関係がおかしいがそれっぽい言葉を吐くやつはもはやAIだと疑え。


言わねばならんことは


「無駄にしたということは、贅沢をしたということである。お前は快楽に生きたのだ」と。


俺が生まれた日に改めて刻み込んでおく。
30代も恥ずかしく生きてくと。