30+1歳の原点

 

5月15日を迎え、31となった。


25からブログを書き始め、途中止まっていた期間もあったが、頭の片隅にはつねに文章を綴ることを意識していた。これからもこの営みは続けたいと思う。


誕生日、ということで自分の生まれた意味をこいつは考察しだすのだろうか。
そうしたいのは山々だが、今まで「自分の生まれた意味」など考えたことはなかった。
それどころか漠然と「俺がこの世に生まれたことは世界にとってプラスだろう」といった傍から見れば傲慢な自己を持ち合わせている。
いやいや、こいつは何かにつけて己の空虚さを嘆いているではないか、そんなやつが自己肯定モリモリなのはおかしい、という指摘はごもっともだ。

 

俺の内部に発生している苦しみは空虚さなのであるが、それは世界にとってプラスであるといった傲慢な自意識を支えるだけの内面がないところに端を発している。
よって尊大な自意識を存立させるだけの自己がない、そこから生じている痛み。
これは贅沢な悩みなのだ。


どうしてこんな肥大化した自意識を後生大事にとっているのか。
それは贅沢だからである。

 

贅沢とは無駄を尽くすこと。つまりは浪費だ。
俺は20代のほとんどを足踏みに費やしたが、見方によっては贅沢に過ごしたのである。
今までの人生を無駄に過ごしてしまったと嘆く人に
「君の人生に一秒たりとも無駄な時間なんてない。だって君はかけがえのない人なのだから」
と、前後関係がおかしいがそれっぽい言葉を吐くやつはもはやAIだと疑え。


言わねばならんことは


「無駄にしたということは、贅沢をしたということである。お前は快楽に生きたのだ」と。


俺が生まれた日に改めて刻み込んでおく。
30代も恥ずかしく生きてくと。