ドイツ出身の思想家ハンナ・アーレントにはこんなエピソードがある。
ユダヤ人であった彼女は一度強制収容所に捕らえられるも脱出、ナチスから逃れるため複数の同郷人達とアメリカへ亡命を図った。しかしいつまた捕らえられるかわからない恐怖と、肉体的な疲労も重なり、同郷人たちの目には絶望の色が差し、日に日に生きる活力が失われていった。この逃走生活の中では絶望から捕らえられる前に自殺をはかる人たちも多く存在したのだ。
そんな状態をみたアーレントは女性たちに身だしなみを整え、化粧をすることを提案する。彼女は絶望に打ち克つには恋のエネルギーが必要だと考えていたからだ。
無論わたしたちは命を狙われているわけでもないし、死に瀕しているわけでもない。だが、しかし、積極的に明日を肯定できる人間もまたどれだけいるのだろう。
いや、いるだろう。大切な人と愛を育めている幸運な人間はある程度存在している。しかし、そんな幸運な人間が存在しているからこそ、それに接続できない自分がより悲惨により不幸に思えてしまうのだ。
結局、男が書く理由とはすなわち彼女の魅力を表す語彙の習熟にほかならないと思う。
太古の男たちは漢字を「漢」しか読めない字として図に乗っていたが、女性に恋文を送るために仕方なくひらがなを使いはじめた。
自分達は女よりも優れているが女は口説きたいという男のどうしようもなさは今とまったく変わっていない。
ここに人間の変わらなさを感じる。昔とくらべて今のほうが優越してるなどどうにも思えない理由がここにある。
それでも、まあ、恋のエネルギーを文に乗せるというのは好ましく思う。その人のもっとも熱がこもり、もっとも誠実な言の葉が恋文には宿っているだろう。
思えば現代では手紙がメールとなり、チャット形式となり、文語から口語への移行、短い言葉のやりとりが主流となった。私にはこれが人が文豪になる機会が失われているようなきがしてならない。
生きるというのは未来のあなたに出会うかもしれないという希望、いや目の前のあなたの魅力を発見する試みなのではないだろうか。そしていざ出会ったときにあなたを表す言葉を持ち合わせているか、この言葉を磨いていくのが成長と呼べる代物だと思う。
生きるために恋をする。そしてあなたを発見する。
前に進むのは嫌いだが、これならまあ…許容できるかもしれない。