どうして書くのか

今、連続不審死事件を起こした木嶋佳苗が執筆した自伝小説を読んでいる。これを手に取ったきっかけといえば、最近新しくkindleunlimitedを契約したからで、この小説はそのラインナップのひとつであった。普段なら決して身銭をきってまで読みたいとは思わない代物だが、タダであるならばと興味が勝った。

しかし興味本位で読み始めたのはいいものの、4割ほど読んだところで正直これ以上読書を続けたくないと思っている。まず、文量が多く、全部で600ページもある。そして筆者の人となりが信用できない。それは人を殺しているから信用できない、というわけではなく、自分を守るためだけの言葉は信じることができないのだ。

 

同じく殺人事件を起こした少年Aも本を出している。

1997年。

神戸連続児童殺傷事件から25年がたったとして様々な特集が組まれているが、その中で被害者遺族たちが共通したことを述べている。「手紙を書き続けてほしい」

詫び続けろなんてことは誰一人として要求していない。ただ、文を書くことで自分自身と向き合い続けろ、と。

 

偶然この二人が自分の中で混ざり合い、書くということについて考えるようになった。

自分の場合、明確な理由がひとつある。

それは己を慰めるために書いている。

 

ここで自分で用意した縄に縛られることになるが、果たして、自分を慰める奴の言葉にいったいなんの重みがあるのだろうか。

さらに言えば、今お前が感じている痛みは、自分を慰めるために作りあげた虚構の世界と現実とが衝突することで生まれたただの摩擦熱ではないのだろうか。

 

木嶋の本を読み続けられない本当の理由はこれだ。

自己嫌悪なのだ。

 

俺が獲得したと思っていた苦しみは偽物から作り出されたまがいもので、虚構の世界に完全に住み着いているくせに現実に忖度している小心者でしかない。