しじま

 

昨年の11月から働き始め、一人暮らしもはじめた。

眠れぬ日が続き、それでも不思議と体は元気だった。

頭の中は絶えず回転し、つぎつぎとアイデアが浮かび上がっていた。

そして脳内には妙なイメージ―タービン内でガスがごうごうと噴出しているような―が付きまとっていた。

俺は傲慢になり、他者を蹴飛ばしたくなり、女体を求めるようになっていた。

 

人生で三度目だった。

これは「躁」だと確信した。

 

 

 

少し、うれしかった。

 

俺の愛した作家と同じ病気であることが。

 

 

そしてこの状態なら死ねる、そう思えた。

 

何も今すぐ死にたいわけではない。

死にたいと思ったときに死ねる力があることがわかって安心したのだ。

 

 

死に瀕すると生に固執するようになるのと同じように、死を意識することで初めて生きている実感がわく。

俺は自分の人生を歩みたがっていたんだ。

 

今まで、人生がうまくいかないのは周りのせいだとして、己と向き合うことから避け続けていた。当然俺にも非があるのだ。

 

それでも自立し、自足した生活をはじめ、自己の実現に向けて歩みを始めた。

 

躁鬱の治療には認知行動療法が行われるらしい。

これは直観であるが、今まで自分が続けてきた思索とほとんど変わりはないはずだ。

知らず知らずのうちに、治療方にたどり着いていた。

人間の免疫機能はよくできている。

 

「躁」状態のときに周囲の人間を傷つけることがわかった以上、本格的に治療に取り組まなければならない。

 

しかし、完全に治そうとも思っていない。

もうすこし付き合っていきたいとさえ思える。

 

 

荒波のような感情の乱降下ののち、おとずれる深い深い静寂を俺は気に入っているんだ。