彼岸花

9月も終わり、彼岸花がその妖しい花弁を開いているのが目につく季節となった。家近くの川沿いを歩くとその彼岸花達が咲き誇っている光景を見ることができる。このどこか現実離れした派手さがあり、どこか不吉な印象をもたせるこの花が好きだ。

彼岸の時期の、あの世に想いを馳せているとき、傘をひっくり返したような赤い花を見つめていると、不思議と心が安らいでいくのを感じる。

 

 

21のとき、精神の危機に陥った。この上なく自分という存在が曖昧となり、生きる活力が日に日に抜け出ていっているような、そんな感覚だった。体重は減り、身なりは汚れ、部屋は荒れていた――あらゆるものに関心がなくなり、まとまった思考をもつことができなくなっていた。

今思えば俺に別れを告げた女を憎めばよかったと思う。ありふれた恋愛のありふれた結末だったのだから、そこまで深刻に考えなくてもよかったのだ。

それでも当時の俺は馬鹿だから彼女を恨まず、すべて自分に非があるとして彼女を庇った気ですらいた。もう自分を一切見向きもしない女に固執して、いったい俺はどうしたかったのだろう。

 

 

そんな俺を救ったのがゼミでの勉強だった。自由や正義について思索しているときは浮世の苦しさを忘れさせた。勤勉というのは苦しみから逃れる手段なんだとつくづく思い知った。古典に没頭しているときは、将来の不安なんて考えなくてもよかった。

そして悲しみは薄れ、傷口はふさがった。

 

俺は一人で乗り越えてしまった。

 

もう少し、悩みや苦しみを人に預けて頼ることができていればもっと楽に生きられただろうと思う。人に迷惑をかけることを恐れず、もうすこし勝手に振る舞っていれば、もっと早くに自分は不完全な生き物だと認めることができたし、人もまた不完全なんだと赦せるようになれたはずだ。

 

 

今になって一人で乗り越えることに躊躇いが出ている。ここで一人で暗闇を乗り越えてしまったら俺はいよいよ一人で完結することになる。人の助けを借りず、自分自身の力だけで困難を乗り越えたとき待ち受けるのは、完全な人間。俺が呪ってやまない親父のような、遥か上で俺を見下ろしていたあの親父のような奴に俺自身もなってしまう気がしてならない。

 

しかし、追いすがる人間に人の目は厳しい。現に俺は救いを求めすぎて生き恥を晒しに晒している。もういよいよ追い詰められている感覚を覚え始めている。

 

 

彼岸花花言葉は「あきらめ」「独立」。

 

俺はすべてを諦め、完結すべきなのかもしれない。