たはむれに

 

シェリー酒とは酒精強化ワインのことで、白ワインにウイスキーの薫香が加わったような、飲み口は軽やかながら重厚な香りをたっぷり味わえるお酒である。熟成の度合いによって色も変わり、白ワインと変わらない透明さを持ったものからウイスキーのような琥珀色、オニキスを思わせる濃厚な黒色を持ったものまで様々な色合いを持っている。

うちで飼っていたシェルティにもこのお酒からちなんで同じ名前をつけた。当時は知らなかったが、シェルティの持つ見事なセーブルの毛並みはシェリー酒とぴったりであり、そんなこともあってシェリー酒はスペインバルへ行くと必ず頼むお気に入りのお酒だ。

 

そのシェリーはなかなか神経質な犬で、インターホンがなるとたちまち吠え散らかし、掃除機をかけるときも、オーブンの蓋を開けるときも、そして家族が出かけるときもやかましく吠えていた。それでも家族が帰ってくるとまっさきに飛び込んできて、なでてもらいたいのとお尻を触ってほしいの両方なのか側でくるくる回りながら喜びを示してくれた。

 

どうやら車が怖かったらしく、他の犬ともまったく交わろうとしないやつで、犬にしては珍しく散歩を嫌った。内弁慶の出不精となかなかの箱入り娘っぷりに苦笑したが、まあいつしか似てしまったんだろう。

 

子犬のころは白と薄い茶色だけだった体毛も、年を重ねるにつれこげ茶色と黒色の体毛が加わり気品漂う見事な三色の毛並みに成長した。そしてゆっくりと熟成に向かっていった。

 

いつしか目が濁り、動くのを億劫がるようになった。それでも僕が帰ると突撃してきてお尻をプリプリ向けてきた。

 

京都から引き上げてきた日も変わらず出迎えてくれた。ゆっくりなでてやると、相変わらず見事な毛並みの下に浮き出た背骨が隠されていた。

それに触れた途端涙が溢れてしまい、部屋に引っ込まざるを得なくなった。本当はもっと触れていたかったけれど、悲しい顔を見せたら心配させてしまうのでなるべく早く気分を落ち着かせようとした。そんなときに石川啄木の短歌を思い出して、もうどうにもならなくなってしまった。

 

 

そのときには介助をしてやらないと立てないくらい弱っていて、あの日のやかましさはもう無かった。それでも夜になると目を覚まし、弱々しい声で吠えるので、側にいってなでてやるとまた眠りについた。そんな日が続いた。やがて立てなくなるとずっと横たわるようになった。

 

 

そして先日、最後にクンクンと鳴いたあと息を引き取った。

 

 

 

例えばこれから先、死後の世界などは無くただ虚無があるだけだと科学によって証明されたとしても、天国への信仰は無くならないだろう。また、カタストロフが起こり文明が破壊され尽くしたとしても信仰は蘇るだろう。それは死者を悼む気持ちがあるからだ。

 

別れが最大の悲しみであるならば、楽園には再会があるだろう。

信ずるものは救われるとはよく言ったものだが、楽園を夢見る者としてはその世界を信じようと思う。

なんでも無いことを幸福に思える能力か、些細なことでも苦しむ能力か

 9月も中旬となり、京都の空は不安定で気づけばしとしとと雨が降っている。うだるような夏の熱気も、冷たい雨が大地の熱を取り去り、すっかり秋の面持ちとなってきた。

 

 

 夏休み明けは自殺者が増えるというニュース、教師や保護者は注意喚起をとのことだ。が、どこを見ても「自殺を防止する」ことに重点が置かれており、やれうつ状態だと思考が狭くなるだの、セロトニン不足で幸福が感じられなくなっているからだの、正常な考え方をしていれば自殺には至らず、それは心の病気なので適切な治療を施しましょうねと、まるで死を意識すること自体間違いで、そこに至る人間はどこか欠陥がある、みたいな言い草だ。

 

 

この言説は死に魅力を感じている人間にはまったく響かない。むしろ逆効果にすら思える。

 

 

 死こそが救済、なんてさかしまなことを考えるようになった自分だけど、それはジョルジュ・バタイユの『文学と悪』に依るところが大きい。ここでバタイユのエミリ・ブロンテ論を参照しながらその理由を記してみたい。

 

 

 エミリ・ブロンテは『嵐が丘』の作者でこれが唯一の長編小説である。そして30歳という若さでこの世を去った。バタイユによれば、牧師の娘という極めて道徳的な環境で育ちながら、『嵐が丘』には純粋な悪が描かれており、さらに田舎の生娘がここまで激しいエロティシズムを内包していたことには驚きをかくせない、と語られていた。

 

エミリ・ブロンテの苛烈な作品からバタイユは一つの命題を得る。それは「死こそ、愛欲の真理である」であった。

 

性欲にはすでに死が前提として含まれている〔…〕性欲発情の根底には、自我の孤立性の否定が横たわっている。つまりこの自我が、自我の外にはみ出し、自己を超出して、存在の孤独が消滅する抱擁のなかに没入する時に、はじめて飽和感を味わうことができるのだ。〔…〕世のいわゆる悪徳とは、まさしくこの奥深い死の介入に由来するものだが、また肉体に具象化されない恋の苦しみも、愛に結ばれているものたちの死が近づき、彼らにおそいかかるほどにもなると、それだけに愛欲の究極的な真理の象徴となるのである。

 

 性欲には死が前提として含まれているというのは、生殖は存在をあいまいにすることが挙げられる。たとえば単純な無性生殖生物は生殖するごとに希薄になる。これは分裂することで以前あったものをやめる行為に他ならないからだ。有性生殖も同じで、誰かと強く結びつきたいという欲求には他の誰かに自己を埋没させ、融合することで別のものになりたいという欲求で、これは自己の死を意味している。かくして死とエロティシズムは強く結びついており、人はそもそも死の欲求をも持っているということになる。

 

 

 これは人類皆自殺志願者ということではなく、バタイユによれば『暴力が存在の上にその影を拡げ、存在が「真向から」死と対決するようになるにつれ、生は純粋な恩恵となるからである。なにものもそれを破壊することはできない。つまり死とは生の更新の条件なのである

 

 

 死へと向かう破壊的な本能こそ、人間の生のなかで最も豊穣な意味をもつものであり、したがってこの呪いはもっとも確実な祝福への道だと言える。

 

 

 人が死への欲求を持っている以上、これに魅力を感じてしまうことは正常なことであり、むしろ誠実に生きたいという願いが表出しているということだ。その死にたくなるほどの苦悩を感じられるというのは、理性がでっちあげた掟を打ち破る力があるということで、これは決して失ってはいけないものだと思う。

 

 以上が僕が「なんでもないことを幸福と感じる能力よりも、些細なことで苦しみを感じてしまう能力のほうが上だ」と思う理由で、簡単に「死ぬな」と言ってその苦悩を取り上げようとする人間に対して反感を覚える理由なわけです。

 

 

 

秋の空はどこか憂鬱ですが、その憂鬱すら愉しむ快楽主義者に。

戦争の思い出

小学3年生のころオーストラリアの現地校へ通っていた。 

 

オーストラリアに来て1年しか経っていない俺は英語に関しても未熟で、聞き取るのがやっとの俺は、環境に対する不安とクラスの子の足を引っ張っているという己の尊厳が傷ついた苦しい状態であった。 

 

それでもトロイとエドワードは俺を温かく受け入れてくれ、自然に遊んでくれていた。 

 

そこで俺の平穏を一変させる、ある出来事が起こった。 

 

それは歴史の授業で先生が「オーストラリアは侵攻をしたことのない立派な国だ」、と述べたあと、 

 

 

「そんな国に戦争を仕掛けた国がある。それが日本だ」 

 

 

それを聞いた瞬間、俺はおびえた。 

 

日本人は悪いやつだといって、みんなからいじめられたらどうしよう。 

 

トロイとエドワードと友達でなくなってしまったらどうしようと。 

 

その瞬間は自分が日本人であることを本気で呪った。 

 

 

あのとき、教室に流れていた沈黙はさらに俺を追い詰めていった。 

 

そこから数日、びくびくしながら学校に通った。 

 

結果として、俺はいじめられることはなかったし、トロイとエドワードも何も変わらず、普段通り俺に接してきてくれた。 

 

 

戦争が終わって60年近くたっていた時でも、戦争は子どもを追い詰めるような影響を及ぼす。 

 

できれば俺と同じような思いをする子どもはいてほしくない。 

 

そしてトロイとエドワードのような、気にせず一緒に遊んでくれる人が未来の子どもに増えてくれることを切に願う。 

 

だから、戦争、反対。 

甘えたい

 

今日は何もやる気が起きず、ずっとベッドに横たわっていた。 

 

 

相変わらずの不眠と酒に頼る毎日。 

 

 

友達は心配してくれる。ありがたいが、申し訳ない。 

 

 

病院へ行けと言うやつもいる。正論であるが、俺が欲する答えではない。 

 

 

そもそも今の状態でメンタルやってますなど会社に言えるわけもない。 

 

 

病院へ行ったところで俺の欲求は満たされることなどないのだ。 

 

 

俺は、誰かに甘えたいんだ。 

 

 

 

 

兄として家族の失敗を一身に引き受けた一方、俺には甘えが許されなかったのだ。 

 

 

俺の心が折れたとき、父親も母親も俺を無理やり立たせることしかしなかったんだ。 

 

 

いったい、誰が、俺の苦しみを分かってくれるんだろうと、救いの手を待ち望んでいたが、そんなものは現れず、結局自分の手で始末するはめになった。 

 

 

今、大量に酒を飲んでいるのは酩酊に甘えを見出している。 

思考をめちゃくちゃにすることで、赦しを得ようとしているのだ。 

 

面倒な俺を赦してほしい。 

 

多めに見てやってくれ。 

こいつはちゃんと感謝するからよ。甘えさせてやってくれ。 

踊る女

 

高校生の文化祭のとき、忘れられない体験をした。 

 

それは同級生のダンスパフォーマンスを見た時だ。 

 

彼女らはKARAのミスターを制服姿で踊っていた。 

 

ミスターのMVではズボン姿で腰に付けた作業帽をぐりぐりふりまわすのに対し、彼女たちは制服のスカート姿のまま腰をぐりぐり振り回していた。 

 

KARAの挑発的なダンスを女子高生が太ももの奥底まで見せてさらにエロティックさを増して、俺の目はまさに釘付けとなっていた。 

 

 

大学生のとき、同棲していた女が韓国の音楽を流し始め、はらりはらりと踊り始めたことがある。 

 

 

「わたし、曲を聴いたらだいたい踊れるの」 

 

彼女は下着姿で俺の眼の前で踊っていた。 

 

下着から香るほのかなデルタの匂いを感じながら、踊る女を見ながら飲む酒は至福であった。 

 

今の俺ならわかる 

 

エロド王がサロメに七つのヴェールの踊りを見せてくれと懇願した理由が 

 

究極の美がそこにある 

それは俺を突き起こしてやまない 

 

 

その踊りを見るためならば、俺が差し出せる一切のものを差し出すだろう。 

 

俺のために踊ってほしい。 

 

ナチズムの美学

 

これはベンヤミンが「ファシズムは政治の美学化である」と指摘した通り、ソール・フリードレンダーも同じ問題意識を持って、ナチのプロパガンダ映画の特徴から「キッチュ」と「死」が埋め込まれていることを主張した本だ。 

 

さらにナチズムは性愛と結びついていたのではないかとフリードレンダーは考察している。フーコーバタイユを参照しファシズムを支えたあの熱狂の正体は性愛だったのではないか、と検証の余白を残していた。

 

確かに性愛はバタイユの言葉を借りれば「自己を埋没させたいとする欲求」である。社会的鎖中から解き放たれ、初めて個人となった近代以降の人間は不安を抱え、自由に耐えられず、そこから逃走してしまうとエーリッヒフロムは述べた。これがファシズムに向かう心理であり、ヒトラーへの合一化をしたいという欲求はそれは性愛と性質を同じとしている。 

 

なるほど権威への従属と自己の自由の否定は実は楽しいことだ。俺は女からしょんべんをかけられると興奮を覚えるが、それは俺のマゾヒスティックな性質によるものだ。舌を出せと命令し、素直に従う女を見ても興奮を覚える。つまり俺はサディズムマゾヒズム両方の快感を理解しているし、多くの人も同じような性質を持っているだろう。 

ヒトラーという破壊の権化との一体化はサディズムマゾヒズムの両方を欲求を満たし、欲求が満たされた民衆はヒトラーを熱狂的に支持するようになる。 

 

 

本書で引用されているエルンスト・ユンガーの言葉を借りて本の要約としたい。

 

彼の政権掌握を祝福したあの熱狂的な大歓喜はどれも、自分自身が無となる展望を皆が歓迎したことなのであり、純然たるニヒリズムの祝祭なのだ 

 

しじま

 

昨年の11月から働き始め、一人暮らしもはじめた。

眠れぬ日が続き、それでも不思議と体は元気だった。

頭の中は絶えず回転し、つぎつぎとアイデアが浮かび上がっていた。

そして脳内には妙なイメージ―タービン内でガスがごうごうと噴出しているような―が付きまとっていた。

俺は傲慢になり、他者を蹴飛ばしたくなり、女体を求めるようになっていた。

 

人生で三度目だった。

これは「躁」だと確信した。

 

 

 

少し、うれしかった。

 

俺の愛した作家と同じ病気であることが。

 

 

そしてこの状態なら死ねる、そう思えた。

 

何も今すぐ死にたいわけではない。

死にたいと思ったときに死ねる力があることがわかって安心したのだ。

 

 

死に瀕すると生に固執するようになるのと同じように、死を意識することで初めて生きている実感がわく。

俺は自分の人生を歩みたがっていたんだ。

 

今まで、人生がうまくいかないのは周りのせいだとして、己と向き合うことから避け続けていた。当然俺にも非があるのだ。

 

それでも自立し、自足した生活をはじめ、自己の実現に向けて歩みを始めた。

 

躁鬱の治療には認知行動療法が行われるらしい。

これは直観であるが、今まで自分が続けてきた思索とほとんど変わりはないはずだ。

知らず知らずのうちに、治療方にたどり着いていた。

人間の免疫機能はよくできている。

 

「躁」状態のときに周囲の人間を傷つけることがわかった以上、本格的に治療に取り組まなければならない。

 

しかし、完全に治そうとも思っていない。

もうすこし付き合っていきたいとさえ思える。

 

 

荒波のような感情の乱降下ののち、おとずれる深い深い静寂を俺は気に入っているんだ。