なんでも無いことを幸福に思える能力か、些細なことでも苦しむ能力か

 9月も中旬となり、京都の空は不安定で気づけばしとしとと雨が降っている。うだるような夏の熱気も、冷たい雨が大地の熱を取り去り、すっかり秋の面持ちとなってきた。

 

 

 夏休み明けは自殺者が増えるというニュース、教師や保護者は注意喚起をとのことだ。が、どこを見ても「自殺を防止する」ことに重点が置かれており、やれうつ状態だと思考が狭くなるだの、セロトニン不足で幸福が感じられなくなっているからだの、正常な考え方をしていれば自殺には至らず、それは心の病気なので適切な治療を施しましょうねと、まるで死を意識すること自体間違いで、そこに至る人間はどこか欠陥がある、みたいな言い草だ。

 

 

この言説は死に魅力を感じている人間にはまったく響かない。むしろ逆効果にすら思える。

 

 

 死こそが救済、なんてさかしまなことを考えるようになった自分だけど、それはジョルジュ・バタイユの『文学と悪』に依るところが大きい。ここでバタイユのエミリ・ブロンテ論を参照しながらその理由を記してみたい。

 

 

 エミリ・ブロンテは『嵐が丘』の作者でこれが唯一の長編小説である。そして30歳という若さでこの世を去った。バタイユによれば、牧師の娘という極めて道徳的な環境で育ちながら、『嵐が丘』には純粋な悪が描かれており、さらに田舎の生娘がここまで激しいエロティシズムを内包していたことには驚きをかくせない、と語られていた。

 

エミリ・ブロンテの苛烈な作品からバタイユは一つの命題を得る。それは「死こそ、愛欲の真理である」であった。

 

性欲にはすでに死が前提として含まれている〔…〕性欲発情の根底には、自我の孤立性の否定が横たわっている。つまりこの自我が、自我の外にはみ出し、自己を超出して、存在の孤独が消滅する抱擁のなかに没入する時に、はじめて飽和感を味わうことができるのだ。〔…〕世のいわゆる悪徳とは、まさしくこの奥深い死の介入に由来するものだが、また肉体に具象化されない恋の苦しみも、愛に結ばれているものたちの死が近づき、彼らにおそいかかるほどにもなると、それだけに愛欲の究極的な真理の象徴となるのである。

 

 性欲には死が前提として含まれているというのは、生殖は存在をあいまいにすることが挙げられる。たとえば単純な無性生殖生物は生殖するごとに希薄になる。これは分裂することで以前あったものをやめる行為に他ならないからだ。有性生殖も同じで、誰かと強く結びつきたいという欲求には他の誰かに自己を埋没させ、融合することで別のものになりたいという欲求で、これは自己の死を意味している。かくして死とエロティシズムは強く結びついており、人はそもそも死の欲求をも持っているということになる。

 

 

 これは人類皆自殺志願者ということではなく、バタイユによれば『暴力が存在の上にその影を拡げ、存在が「真向から」死と対決するようになるにつれ、生は純粋な恩恵となるからである。なにものもそれを破壊することはできない。つまり死とは生の更新の条件なのである

 

 

 死へと向かう破壊的な本能こそ、人間の生のなかで最も豊穣な意味をもつものであり、したがってこの呪いはもっとも確実な祝福への道だと言える。

 

 

 人が死への欲求を持っている以上、これに魅力を感じてしまうことは正常なことであり、むしろ誠実に生きたいという願いが表出しているということだ。その死にたくなるほどの苦悩を感じられるというのは、理性がでっちあげた掟を打ち破る力があるということで、これは決して失ってはいけないものだと思う。

 

 以上が僕が「なんでもないことを幸福と感じる能力よりも、些細なことで苦しみを感じてしまう能力のほうが上だ」と思う理由で、簡単に「死ぬな」と言ってその苦悩を取り上げようとする人間に対して反感を覚える理由なわけです。

 

 

 

秋の空はどこか憂鬱ですが、その憂鬱すら愉しむ快楽主義者に。