アーバンモンキー

 

4月中旬、友人に誘われ人生初の合コンに参加をした。 

いや、あれは合コンというより小さい街コンというか、小規模なパーティというか、「アウトドア好きで集まろう!」とお題目が設定されていたので、ちょっとしたイベント程度のものではあった。 

当然、俺はアウトドアに関心はなく、周りもその程度だろうとたかをくくっていたら、案の定そうで、それならそれでこちらで話が盛り上がる別の話題を見つけて話していればいいと思っていたが、なんと主催者によってトークテーマが事前に決められていた。それもアウトドアで。 

 

参加者各々がうすーいアウトドアトーク――ある人は旅行が好きだと言うし、ある人は野球観戦が好き――とそれは果たしてアウトドアなのかと突っ込みたくなることもしばしばで、そもそもアウトドアという括りが大きく話は嚙み合わない。お互い初対面であるため、突っ込みをこらえながら、うんうんとうなずきながら、お互いのことを知り合えるような予感は当然なく、参加費の5000円が次第に痛手となっていくのを感じていた。 

  

  

その後の俺たちは語るに堪えない。 

合コンの不満を相席居酒屋で解消しようとして、そこで知り合った自称経験人数3桁の女とクラブに行くことになった。 

人でごった返したフロアは騒音をまき散らしていたが、下心を覆い隠すにはちょうどよかったのかもしれない。 

それにしても雄と雌の交尾をする直前、つまりは相手を探してイラつき合っている空間というのはとにかく汚らわしい。ましてや、自分がプレーヤーであるから最悪だ。 

その自称三桁の女はほかの男といちゃつきだしたので、やぶれた雄はずこずことネットカフェに退き、一人で夜を明かすことにした。 

  

  

出会いを求めに行きながら、集団に没入しようとしながら、それにも関わらずより深い疎外を感じているのはどういうことだろう。 

いやいや、分かりきっていたことじゃないか。 

互いが孤独であることをわかっていながら、互いの孤独に触れようとしない。 

相手に触れることで己の弱さを認めてしまうことになるからだ。それゆえに吹けば吹き飛ぶような自己しか持てず、その軽さゆえに人の重しになることもできない。 

おとこおんなの性に汚らわしさを感じているのも、結局のところ己の空虚さに端を発しているような気がする。己が暴かれるのがこわいのだ。 

おとことおんなの接近を唾棄すべきものとすれば、己が暴かれることもないのだ。 

 

それでいながら女に救いを求めているあたり、徹底的に救いようがないのだが。 

 

  

  

  

かくてアーバンモンキーは原始時代に思いを馳せる。 

黄金色に輝く、美しい肢体を誇りながら、太陽の下で結びあっていたあの頃を。 

しかし、アーバンモンキーには古代の民族にはない美がある。 

精神の潰瘍によって崩れた容貌、憔悴の美とでもいへるようなもの… 

 

おまえは傷つく以外に能がないのだから、せめて転んだときに思いっきり怪我をするように走る速度をあげていろ。 

 

二人の王国

2004年、夏。小学生だった彼は背伸びをしたかった。恋というものがどういうものかを知りたかったのだ。少年はなけなしの小遣いをはたいて、当時ベストセラーになっていた「世界の中心で愛をさけぶ」を手にとってみた。

結果として、本の帯に書いてあるような感動の渦に巻き込まれるなんてことはなく、恋の正体は掴めずじまいだった。ただ、昔の恋人の墓を掘り起こして骨を盗む描写はなんだか気に入っていた記憶がある。

 

彼はこの「世界の中心で愛をさけぶ」で読書感想文を書いた。

彼の読書感想文はなにかの代表に選ばれて、どこかのコンクールに送られることになった。

どうして選ばれたのかはわからないが上述の背伸びをしたいという少年心と、本来の自意識過剰な文体が受けたのかもしれない。ただ、あの文はいい子ちゃんぶって書いたものだから結局大人は子どもが子どもであることを好むのだろうと、なんとなく少年は感じていた。少しだけ注目を浴びた彼はそのあと机の中に隠していた感想文を悪ガキによってクラスの皆にさらされ嘲笑された。怒った彼はその悪ガキに掴みかかっていった。

 

 

中学にはいると、恋仲の間には必ず粘膜の接触があるらしいと男子中学生達の間ではもっぱらの噂だった。誰もが彼女を作るのにやっきになり、その中には女の柔肌に至ったものもいた。

この頃から彼のなかで恋=粘膜という観念ができあがり、まずはこれに触れてみなくては恋の正体なぞわからない、そんなふうに考えるようになっていた。しかし彼が女のデルタに出会うのは高校を卒業したあとになるのだが。

 

 

ひとかどの恋愛関係を体験し、恋愛から生ずる懊悩も味わった彼だが、どうやら、未だに恋というものが捉えられてないらしい。というのも一般的な恋のイメージと彼が体験してきたもののズレがあった。

彼には恋愛感情と性欲とが区別できない。さらには、相手を支配、独占したいという感情が圧倒的に優位だ。隣にいる女は嘘をついていないかと疑心暗鬼になる。もしかしたら俺の知らない間に貞淑を侵しているかもしれない。この恍惚に浸った顔をオレ以外のダレカにむけているかもしれなイ………。

 

 

これが恋というならば、「恋がしたい」とセミのように鳴いている連中はあまりに野蛮であって、街を歩くカップルやはたまた親達をみて、どうしてあそこまで清廉潔白に振る舞えるのかずっと疑問であった。

 

そんな折、「嵐が丘」を読んだ。

作者はエミリ・ブロンテ。牧師の娘として生まれ、29のときに「嵐が丘」を発表し、その翌年に亡くなっている。そしてこれは語られていることだが、彼女は生娘であった。

 

キャサリンヒースクリフは深く結びついている。これは粘膜によってではなく、少年時代の王国によって。ヒースクリフは孤児で、そして悪鬼のような振る舞いをする。彼にはキャサリンしかなかった。しかし、キャサリンは紳士で裕福な家柄をもつエドガーに求婚され、それに応じる。裏切られたヒースクリフは彼女らに見合うような大人となって、ふたたび彼女らの前に姿を現すが……。

 

キャサリンは板挟みであった。片や裕福で物腰の柔らかく、絵に書いたような幸福な結婚生活を送れるエドガーか、乞食のような生活を送るはめになるが自分と究極に繋がっているヒースクリフなのか。

片方は一般的で型にはまった幸福を、一方は身を滅ぼす至高が待っている。

 

ジュルジュ・バタイユは田舎の生娘がこの悪にまみれた物語を紡いだことを「想像が現実に勝利をした」例だといった。悪の至高性の前に粘膜の触れ合いなど戯言にすぎないのだ。

 

 

どうやら我々は恋が毒にも薬にもならないくらい薄められた世の中に生きていたようだ。二人の王国は消費にさらされ、この世を破壊する力をもったはずの雄雌はいまや人畜無害な関係と化している。

エミリ・ブロンテにとって恋とは二人の王国であり至高への意志だ。これは理性にでっち上げられた掟に対抗しうるものである。

 

 

 

 

もちろん、彼に王国を築き上げる力を持っているかどうかは、また別のはなし。

彼岸花

9月も終わり、彼岸花がその妖しい花弁を開いているのが目につく季節となった。家近くの川沿いを歩くとその彼岸花達が咲き誇っている光景を見ることができる。このどこか現実離れした派手さがあり、どこか不吉な印象をもたせるこの花が好きだ。

彼岸の時期の、あの世に想いを馳せているとき、傘をひっくり返したような赤い花を見つめていると、不思議と心が安らいでいくのを感じる。

 

 

21のとき、精神の危機に陥った。この上なく自分という存在が曖昧となり、生きる活力が日に日に抜け出ていっているような、そんな感覚だった。体重は減り、身なりは汚れ、部屋は荒れていた――あらゆるものに関心がなくなり、まとまった思考をもつことができなくなっていた。

今思えば俺に別れを告げた女を憎めばよかったと思う。ありふれた恋愛のありふれた結末だったのだから、そこまで深刻に考えなくてもよかったのだ。

それでも当時の俺は馬鹿だから彼女を恨まず、すべて自分に非があるとして彼女を庇った気ですらいた。もう自分を一切見向きもしない女に固執して、いったい俺はどうしたかったのだろう。

 

 

そんな俺を救ったのがゼミでの勉強だった。自由や正義について思索しているときは浮世の苦しさを忘れさせた。勤勉というのは苦しみから逃れる手段なんだとつくづく思い知った。古典に没頭しているときは、将来の不安なんて考えなくてもよかった。

そして悲しみは薄れ、傷口はふさがった。

 

俺は一人で乗り越えてしまった。

 

もう少し、悩みや苦しみを人に預けて頼ることができていればもっと楽に生きられただろうと思う。人に迷惑をかけることを恐れず、もうすこし勝手に振る舞っていれば、もっと早くに自分は不完全な生き物だと認めることができたし、人もまた不完全なんだと赦せるようになれたはずだ。

 

 

今になって一人で乗り越えることに躊躇いが出ている。ここで一人で暗闇を乗り越えてしまったら俺はいよいよ一人で完結することになる。人の助けを借りず、自分自身の力だけで困難を乗り越えたとき待ち受けるのは、完全な人間。俺が呪ってやまない親父のような、遥か上で俺を見下ろしていたあの親父のような奴に俺自身もなってしまう気がしてならない。

 

しかし、追いすがる人間に人の目は厳しい。現に俺は救いを求めすぎて生き恥を晒しに晒している。もういよいよ追い詰められている感覚を覚え始めている。

 

 

彼岸花花言葉は「あきらめ」「独立」。

 

俺はすべてを諦め、完結すべきなのかもしれない。

旧友と塩レモンスプリッツァー

疎遠になった友に連絡をすることにはいつも勇気がいる。それは連絡するきっかけがないのが大半の理由で、そもそも疎遠になったのはその機会が徐々に無くなっていった為である。進学、就職、結婚と互いの環境はどんどん変わっていて、昔のようなフラットな関係ではなくなっている可能性も高い。

大体は相手から連絡が来れば返事をする…くらいの態度を誰もが取っていて、それが余計に疎遠を助長させる。もちろん、そこまで億劫なのならば連絡しなければいい話だが。

 

だいいち、久しぶりに会ったところで何を話すのか。近況の報告、過去の思い出話…その他もろもろの他愛もない世間話をして、そのうちに距離感の違和を感じ始め、過去の関係を取り戻そうと今となってはしんどさを感じる学生時代のテンションに無理くり戻したりして、しまいにはどうしようもない下ネタを話しだし退屈さにさらに輪をかけていた…なんて経験が少なくとも僕にはある。

 

そんなこともあって古い知己と話すときはアルコールが欠かせなくなった。学生時代はこんなものに頼らなくても楽しく話していたはずなのに、なんとも情けなくなったものだ。もちろんアルコール自体は好きだが緊張を和らげるために流し込む酒は嫌いだ。そんなことをするくらいなら一人部屋で呑んでいる方がよっぽどいい。

 

それでも久しぶりに連絡をとった友人がいた。そいつは高校時代なぜか波長があってよく一緒にいた覚えがあるが、いつからそうなったのかは覚えていない。クラスも一度も一緒になったことはないし、そもそもそいつは高2の頃にアメリカ留学に行った。1年して戻ってきたが高校のカリキュラム上学年を一つ下げなければならず、自分たちよりも一つ下の学年になってしまった。

いわゆる留年扱いで、高校時代に年齢の違う人間が同じ学年にいるというのはなかなか奇特な目で見られるものだ。友人も苦労したと語っていた。

 

そんな労苦が見えていながら留学を決意し、果敢に挑んでいった友人を尊敬していた。だから色々な億劫さを超えて会いたいと思わせた。

 

聞けば彼はアメリカの大学の院を出たあとFacebookに就職が決まったらしい。とてつもなく輝かしい経歴に舌を巻いたが、高校時代にそれだけの犠牲を払って挑戦できるヤツだからその報奨は当然なことで、僕も素直に嬉しかった。

 

彼との宴は忘れていた高校時代の空気を思い出させ、自然と会話もはずんだ。楽しさに2軒めを誘い、そこで入ったバーで塩レモンスプリッツァーを頼んだ。

スプリッツァーは白ワインをソーダで割ったもので、そこにたっぷりのレモンとグラスの口に塩を付けたとても爽やかなカクテルだった。

 

 

その味は例えば終始私をおさえつけていた不吉の塊をカーンと、連絡するかしまいかうじうじしていた自分を吹き飛ばすような…そんな塩レモンスプリッツァーがなんだか気に入った。

この世の果てで酒を呑む中年 MI-DO

若い女性に人気」はまったく信用ならない。そのほとんどが広告で、下らないイメージ先行のポップカルチャーであるからだ。僕が信用するのは社会の隅っこに追いやられた哀愁ただよう中年のおじさんだ。彼らが好むものは本物が多いと勝手に思っている。

 

 

彼らの生息域はこの世の隅っこで、それは場末のサウナだったり、くたびれた喫茶店や人けのない公園だったりする。流れ着いた先が隅っこだったのか、好んでそこにいるのかはわからないが、つまはじきにされた者たちが集う場所には独特の優しさがこもる。

 

 

そんな彼らはあらゆる酒の呑み方を熟知していて、若輩者の我々は習うことが多い。特に若者がなかなか手に取らないカップ酒に彼らの美学がたっぷりと詰まっている。

 

カップ酒。飲めば飲むほどその完成度に驚かされる。コップ型の瓶に詰められたカップ酒は蓋をあければそのままお猪口となり、ガラスが持つしっかりとした飲み口を保証してくれる。紙パックの酒では到底表現しえない口当たりだ。ガラスのカップにはまだまだ利点がある。冷やしておけばガラスに冷気が宿り冷やしたコップにそのまま変わり、熱燗にしたいときはそのまま鍋に放りこんでもいいし、電子レンジにぶち込んでもいい。

 

カップ酒の肴は悲劇、哀愁、敗北感……と負の感情と相性がいい。公園のブランコで悲劇のカタルシスを感じながら飲むのが最高に通だと思う。やはり彼らは本物を知っている。

 

「誰も隅っこで泣かないようにと 君は地球を丸くしたんだね」

 

野田洋次郎はのたまっているが、地球が球形になり隅っこが消失したということはこの世の果ても同時に消失することで、それは自分が世界の中心でありながらどこからも疎外されているとも言える状態に置かれていることを指す。目指す場所も消失し、同じところをうろうろするだけの現代で、僕たちはいったいどこに向かえばいいのだろう。

公園のおじさんは未来の私。そのとき僕は悲劇のカタルシスで酒を呑めるくらい老成しているのだろうか。

恋文

ドイツ出身の思想家ハンナ・アーレントにはこんなエピソードがある。

ユダヤ人であった彼女は一度強制収容所に捕らえられるも脱出、ナチスから逃れるため複数の同郷人達とアメリカへ亡命を図った。しかしいつまた捕らえられるかわからない恐怖と、肉体的な疲労も重なり、同郷人たちの目には絶望の色が差し、日に日に生きる活力が失われていった。この逃走生活の中では絶望から捕らえられる前に自殺をはかる人たちも多く存在したのだ。

そんな状態をみたアーレントは女性たちに身だしなみを整え、化粧をすることを提案する。彼女は絶望に打ち克つには恋のエネルギーが必要だと考えていたからだ。

 

無論わたしたちは命を狙われているわけでもないし、死に瀕しているわけでもない。だが、しかし、積極的に明日を肯定できる人間もまたどれだけいるのだろう。

いや、いるだろう。大切な人と愛を育めている幸運な人間はある程度存在している。しかし、そんな幸運な人間が存在しているからこそ、それに接続できない自分がより悲惨により不幸に思えてしまうのだ。

 

 

結局、男が書く理由とはすなわち彼女の魅力を表す語彙の習熟にほかならないと思う。

太古の男たちは漢字を「漢」しか読めない字として図に乗っていたが、女性に恋文を送るために仕方なくひらがなを使いはじめた。

自分達は女よりも優れているが女は口説きたいという男のどうしようもなさは今とまったく変わっていない。

ここに人間の変わらなさを感じる。昔とくらべて今のほうが優越してるなどどうにも思えない理由がここにある。

それでも、まあ、恋のエネルギーを文に乗せるというのは好ましく思う。その人のもっとも熱がこもり、もっとも誠実な言の葉が恋文には宿っているだろう。

 

思えば現代では手紙がメールとなり、チャット形式となり、文語から口語への移行、短い言葉のやりとりが主流となった。私にはこれが人が文豪になる機会が失われているようなきがしてならない。

 

生きるというのは未来のあなたに出会うかもしれないという希望、いや目の前のあなたの魅力を発見する試みなのではないだろうか。そしていざ出会ったときにあなたを表す言葉を持ち合わせているか、この言葉を磨いていくのが成長と呼べる代物だと思う。

 

生きるために恋をする。そしてあなたを発見する。

前に進むのは嫌いだが、これならまあ…許容できるかもしれない。

さよならを教えて

 大事なものをバラバラに破壊したり、猫を轢き殺したり、目の前の女を陵辱したらどうなるんだろう――突然そんなイメージが脳内でフラッシュすることはないだろうか。無論そんな考えを実行することはないし、むしろそんなことを思いついてしまったことに罪悪感が生まれ、そんな邪悪な自分を責めるだろう。しかし押さえつけた邪念はまたふとした拍子に吹き返す。そしてまた自分を責める、その繰り返しに見覚えはないか?

 

 

 脳内とは自由なものであるはずだ。しかし実際にはタブーが存在しており、思考にも制限をかけている。「常識を疑え」とはなんとも陳腐な言葉になっているが、脳の枷を外していく作業はより自由に近づく行為だ。その作業は「猟奇」や「狂信」に接合することも意味する。

さよならを教えて~comment te dire adieu」はこうした狂気を扱ったアダルトゲームだ。パッケージには「現実と虚構の区別がつかない方・生きているのが辛い方・犯罪行為をする予定のある方・何かにすがりたい方・殺人癖のある方は購入を控えていただくようお願いします」などと挑戦的な文言が為されている。これに該当する人間はぜひ購入してくださいと言わんばかりのキャッチコピーだ。今自分が勝手に条件を付け加えるならば「自己実現がうまくいかない方」もプレイを控えたほうがいいだろう。狂っている主人公に共感してしまうからだ。

 

あらすじはこうだ(wikipediaから引用)

主人公は教育実習生としてとある女子校を訪れていた。ある日、彼は美しい天使が異形の怪物に蹂躙されるという奇妙な夢を見る。彼が校内の保健医にその夢の相談をしていた時、一人の少女が保健室を訪れる。主人公の見た彼女の容姿は夢の中の天使に酷似していた。主人公は教育実習生としてヒロイン達と親しくなりながら奇妙な夢の真相を探る。

 

ヒロインたちと交流を深めていくと、ある選択肢が表示される。それは彼女を陵辱するものであり、プレイヤーの意思に関係なく陵辱する羽目になる。しかしゲームの進行上とはいえその選択肢を選んだとき、どこか晴れ晴れとしたのびやかな気分になっている自分がいた。一つ、脳の枷がはずれた。これは清々しいものだった。

 

このゲームの恐ろしいところは「俺は黒だが、それはお前もだろ?」と問いかけてくるところである。それだけ主人公の苦悩は普遍的であり、その苦悩に共感してしまえばその後の精神が崩壊していく様に臨場感が宿る。

 

 

現実がつらい人間は夢の中に逃げ込むが、その夢の中でも追い詰められてしまったら……?精神崩壊は意外と身近に存在していることを知らせてくれる、そんな作品だった。